羽黒山の神仏分離

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今から150年前の明治1 (1868) 年3月28日、

維新政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じる神仏判然令を出しました。

これはその後の羽黒山にとって、大きな転機となる出来事でした。

 

今回は羽黒山の神仏分離についてお話ししたいと思います。

 

慶応3年(1867年)、徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が天皇に

大政奉還(天皇に統治権(大政)を返上すること)したことを受け、

朝廷は王政復古を宣言しました。

これにより倒幕派の薩摩藩や長州藩が中心となり明治新政府が成立しました。

 

新政府は、日本国の存在の根拠を天皇(神)に依ろうとする尊皇思想に基づき、

天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指しました。

 

その一環として、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、

神社と寺院とをはっきり区別させる「神仏分離」が断行されました。

 

もともと神仏分離令は仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、

これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動(廃仏運動)が起こります。

 

神仏習合のお山であった出羽三山もその例にもれず、神仏判然令が伝えられると、

羽黒山は出羽神社と改められました(現在の出羽三山神社)。

 

神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭、

というコンセプトから、仏像・仏具の破壊、経文を焼く、寺院の廃合、

僧侶の神職への転向などを急激に実施したため、お山は大混乱となりました。

 

神道化していった羽黒山ですが、手向の300余りの宿坊のうち、

正善院と金剛樹院は仏教寺院として残りました。

 

こうして羽黒山の聖地は神社と寺の双方に分けられ、羽黒修験の

「秋の峰」も神道側と仏教側それぞれで実地されることになり、現在に至っています。

 

明治の神仏分離政策、および修験道禁止令など多くの受難の時代を経て

様々な変遷を遂げながらも、羽黒修験の伝統と文化は今も連綿と受け継がれています。

 

 ITO1115

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