天宥別当墓参講(てんゆうべっとうぼさんこう)
6月8日(金)、東京都新島村にて、天宥法印墓前祭が行われました。
羽黒山の杉並木や石段を完成させた天宥さん。数々の功績を残し「羽黒山中興の祖」と呼ばれる。
天宥さんは江戸初期に活躍した羽黒山第50代執行別当で、
戦国時代の動乱の影響で衰微していた羽黒山のたて直しに尽力した人物です。
修験の山・羽黒山として熊野・大峰と並ぶ修験本山としての地位を確立させました。
しかしそれまでのお山のしきたりを破って「改革」ともいえるやり方をしたため
不満を持つ地元山伏に訴えられ、伊豆の新島に流罪となり
羽黒山に帰山することはないまま同島で晩年を過ごしました。
東京都新島にある十三社神社。伊豆諸島の祖神・事代主命を主神とした島の総鎮守。
天宥さんが新島に流罪になったころ、島を統制していたのは
地役人の十三社神社の神主である前田さんでした。
前田さんは、江戸で裁判沙汰になっていた天宥さんの噂を聞いていたのでしょう。
浜で天宥さんから流人証明書を受け取ると
「この方は立派なお方であるから、今日から丁重にお世話するように」と
島民に伝えたといわれています。
見聞が広く教養のあった天宥さんは、島民に読み書き、そろばん、
それに本土の農耕技術を教え、島民から尊敬され、慕われていたそうです。
現在も十三社神社の前田さんの家に、天宥さんの遺品が数多く残され大切に保管されています。
十三社神社の前田禰宜様に天宥別当遺品の書画を見せていただきました。
6月8日(金)の天宥法印墓前祭は、出羽三山神社の天宥別当墓参講の皆様と
地元新島の皆様、多くの方が参加されていました。
儀式は午後5時に厳かな雰囲気の中、ほら貝の合図で始まり、墓前で祭詞、
松尾芭蕉の追悼文が読み上げられ、供養が行われました。
天宥さんが新島で亡くなってから15年後、俳人・松尾芭蕉が羽黒山を訪れます。
その際に芭蕉は、時の別当代に頼まれて天宥さんを悼む句文を詠みました。
その句文は
「其の玉や羽黒にかへす法の月(天宥さんの魂は月の世界を通り、すでに羽黒へ帰っています)」
という句で結ばれています。
天宥さんの配流先は長年、伊豆の「大島(おおしま)」とされてきたので
長い間お墓を発見できず不明のままでした。
幾度かの調査によってついに大正15(1926)年の秋に新島で発見され、
昭和13(1938)年に出羽三山神社・遠山正雄宮司によって
祓川(はらいがわ)の自然石を新島に運び墓碑を建立、
代々墓前祭が斎行されてきました。
昭和51(1976)年には羽黒山門前町・手向の氏子の人々により
「天宥別当墓参講」を結成、昭和59(1984)年には
旧羽黒町と旧新島本村と「友好町村」の盟約を結び、
今もなお交流を続けています。